生きることの「むなしさ:実存的空虚」について
[心(実存)]
諸富先生解説の
フランクルのいう実存的空虚(むなしさ)について
「何かむなしい」
「どこかこのままでないられない」
‥‥‥そういった「むなしさ」の感覚を、
フランクルは、「実存的空虚」と
命名しました。
「実存」というのは、人間の生々しい存在そのもの、
といったニュアンスの言葉です。
生々しいリアルな存在、現実存在です。
この「現実存在」の真ん中の
二文字をとって「実存」と呼んだのです。
日々の忙し毎日の中で漂っている
漠然とした「空虚感」。
それが、「実存的空虚」です。
何かに不満があるわけではない。
飛びぬけて幸せだとは思わないけれども、
自分のことを特に不幸せだとも感じない。
人並みには幸せな人生を送れていそうな
気もしている。
けれどもその一方で、何かが足りない。
どこかむなしい。
満たされない。
つまらない。
「心の底から満たされる何か」がない、
と心のどこかでいつも感じている。
そんな心のどこかでむなしさを覆い隠せないような
毎日が、ただ、どこまでも繰り返されていく。
昨日も、今日も、明日も‥‥‥。
それがずっと続いていって、
「このまま私のたった一度きりの人生が
終わってしまっていいんだろうか」
「人生って、こんなものなのか」
「こんなふうに毎日が続いていって、そして
終わってしまうのだとすると、
私の人生って、何だったのだろうか‥‥‥」
多くの人が、そんなふうに、
心のどこかで挫折を感じながら
生きているのではないでしょうか。
例えば、あなたが学生であれば、
1人でカフェーでボーっとしているとき。
サラリーマンであれば、通勤電車に揺られているとき。
そんなふとした瞬間に、
私たちの心にふと訪れる「何か」が足りない、
どこかむなしい、という空虚感。
「私の人生って、こんなものかな」
「このままずっと続いていって、
そのまま終わってしまうのかな」
「この毎日の繰り返しに、
いったいどんな意味があるのだろう」
そんな、思わず発せられる心のつぶやき、
そして、心の真ん中にぽっかりあいている
「心の穴」
それがフランクルの言う
「実存的空虚」 です。